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「母べえ」 [映画(2008)]

このような名匠の入魂の作を前に、いったい何を書けばいいのか。少なくともいい加減な気持ちでこの作品を語るのは、あまりにも失礼である。山田洋次監督がこれまで描いてきたテーマの集大成とも思える作品。おそらく山田監督は、これが最後の作品になってもいい、というくらいの気持ちで完成させたのではなかろうか。そのくらいの渾身の作である。

この映画に描かれているのは「自由ということ」である。自由を奪われることが人間にとっていかに不幸なことであるか、をささやかながら幸せに暮らしていた家族を通して、声高にならずに切々と訴えている。そしてその自由を奪う究極の事柄として戦争を位置づけている。軍国化した第二次世界大戦前の日本において、言論の自由が奪われ、身の自由も剥奪されたドイツ文学者の大学教授。そしてその一家の大黒柱を失った妻と娘ふたりの家族がいかに支えあって厳しい時代を生き抜いたのか。あまりにも頼りない残された一家。そしてそんな家族を励ます周囲の人々。しかしそんな善意の人々も戦争によって過酷な運命を強いられる。ごくごく普通の人々も巻き込む戦争の悲劇を実に淡々としたタッチで訴えている。

それにしても、この映画に出演した役者が皆素晴らしい。控えめでありながら一本筋が通った母べえを演じた吉永小百合を筆頭に、恩師の一家の危機を支えた嘗ての教え子山ちゃんの浅野忠信。夫の妹役の壇れい。無神経ではあるが、いると場が和む叔父を演じた笑福亭鶴瓶。娘役の志田未来と佐藤未来。そして主張を曲げない意志の強さをみせる父べえの坂東三津五郎。皆、この役はこの人しか考えられないと思えるくらいに素晴らしい。

実はこの映画を観たいとは思っていなかった。ポスター等の印象から母子のお涙頂戴ものと思っていたからだ。しかし先日、先にこの映画を観た友人から携帯にメールが入った。そこにはやや興奮した文面で「山田洋次のマスターピースとも言える傑作!」と書かれていた。映画に関しては(それ以外もですが)信頼のできる友人なので、彼の言葉を信じて観に行くことにしたのだった。そしてそれは大正解で、マスターピースかどうかは意見の分かれるところであるが、山田監督のフィルモグラフィの中で重要な一本であることには間違いない。

ここからは僕の推測であるのだが、山田監督は戦前の軍国主義に世相が傾いていく時代を舞台にした『キネマの天地』を1986年に創っている。そこで主人公の中井貴一が大学の先輩だった平田満を匿うシーンがあった。平田は思想犯として警察に追われていた。中井貴一もその騒動に巻き込まれて連行されてしまう。その際、中井の下宿に踏み込んだ刑事が本棚にあったマルクスの本を見つける。マルクスは経済学者ではなく、喜劇役者のマルクスブラザースだったというオチ。これはこれで面白かったのだが、山田監督の中で思想犯をこのような中途半端に描いた(おまけに笑いもとって)ことに、どこか後悔する気持ちがあったのではなかろうか。もし自分があの時代に生きていたら、自分も思想犯になっていたのかもしれないという気持ちがあり、いつかちゃんとした形で再び取り上げたいという想いがあったのではなかろうか。そんな気持ちを抱え、長年黒澤明監督の片腕としてスクリプターを務めた野上照代の自伝的な原作を見つけ、映画にしたのがこの『母べえ』ではないのか。山田監督の永遠のテーマである「家族」を核に、やり残した要素を盛り込んで完成させたのがこの映画ではなかろうか。

まぁそんな分析的なことは、僕よりも山田監督作品に詳しい人(大勢いると思うが)に任せることにして、しばらくは『母べえ』の余韻に浸りたいと思う。


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coco030705

こんばんは。
ようやく見て来ました。ほんとうにいい映画でしたね。
山田監督のうまさを実感した作品でした。
TBさせていただきますね。
by coco030705 (2008-02-20 23:23) 

丹下段平

ココさん、こんばんは。
山田監督の後期の(決め付けちゃいけない?)傑作だと思います。いい映画でした。
by 丹下段平 (2008-02-21 22:15) 

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