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「天まであがれ!!」 [映画(2007)]

先日訪れた浜松が舞台になっていることと、期待の佐津川愛美が出ているということで、実にひっそりと公開されているこの映画を観ることにした。

父を亡くした天馬は母と共に、浜松の母の実家に厄介になることになった。そこには祖母、叔母、高校生の従妹〈叔母の娘〉の楓(佐津川愛美)がおり、特に歳の近い楓とは直ぐに打ち解け、まるで兄弟のような関係になった。天馬の転校先の小学校で、初日からクラスのガキ大将の力也と対立。そして数日後、父の作ってくれた凧を馬鹿にされた天馬は、力也と喧嘩凧で勝負する約束をする。勢いで約束したが、父の凧を上げてみようとしても全く上がらない。困っていた天馬に通りかかりの老人がアドバイスをしてくれると、凧は勢い良く空に舞い上がった。その老人こそ伝説の凧作り名人・中山(宍戸錠)であった。頑固者で周囲から煙たがられている中山老人に弟子入りした天馬は、凧をさらに強くしていく。そして決闘当日、約束していた時間になっても中山は現れない。中山不在のまま楓に見守られ、喧嘩凧の戦いが始まった…と、物語の冒頭はこんな感じ。

浜松は凧揚げの盛んな土地で、浜松まつりでは盛大な喧嘩凧の大会が行われている。そんな風土の特徴を取り入れた地方映画になっている。天馬の父役は地元出身で元Jリーガーの武田修宏が演じている。まさに地元密着型映画である。しかし、地元に関係ない人間でも楽しめるような水準にはなっている。

実はこの水準に達するには、かなり危ういところが多い映画ではあった。予算の関係なのか、出演者の多くにシロートが混じっており、特に小学校のシーンになると、観ていて相当厳しいものがあり、目を覆いたくなる程である。主人公が小学生であるため、進行上学校のシーンは切るわけにいかない。こうなると映画としては破綻寸前である。まさに荒れた大海の中を漂う小船のような状況の映画を救ったのが、老人役の宍戸錠と楓役の佐津川愛美の熱演であったと言えよう。

この2人が出てくると急に映画は締り、物語が活き活きと動き始める。監督も当然現場でその事に気がついたのであろう。本来は凧をあげる行為で天馬の亡き父への想いが浄化される、というのが物語の核であったはずだが、楓が片思いの相手に酷い振られ方し、その悲しみを兄弟のような関係となった天馬が思いやる、という枝葉のエピソードに重点がかかるような作りになっている。しかし、それは正解で、この映画を救う唯一の方法であったのかもしれない。北朝鮮の脱北者を乗せたボロ船が、荒波を乗り越えて日本に漂着したくらいのミラクルであったのではなかろうか。実際、この映画の一番盛り上がるシーンは、楓を振った相手に天馬が復讐する場面であった。

多くの映画が公開されている中、このような小品を観に行こうという人は相当な物好きなのかもしれない。しかし僅かな役者によって物語を成立させてしまったミラクルを体験する、という観点で映画を体験するのも面白いかもしれない。強く勧めることはできないが、当たり前な映画に飽きたマニアには興味深い映画だと思う。

 


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「舞妓Haaaan!!!」 [映画(2007)]

脚本・宮藤官九郎、主演・阿部サダヲ。このメンバーで普通の映画を期待するのは大間違いであろう。ちょっと本多劇場とか紀伊国屋ホールで芝居でも観ようか、くらいのスタンスではないだろうか。

高校の修学旅行で訪れた京都。団体から逸れて迷子になった鬼塚公彦(阿部サダヲ)は、その時に舞妓さんに優しくされて以来、頭の中は舞妓さんばかりに。社会人になり食品会社の社員となったが、仕事中に自分の舞妓さんのサイトで荒し(堤真一)と戦う日々。そんな鬼塚に念願の京都支社に異動が命じられる。恋人の富士子(柴咲コウ)をあっさり振って京都に旅立ち、早速お茶屋に繰り出すも「一見さんお断り」で中には入れてもらえず。そんな中、自分の会社の社長(伊東四朗)が祇園では顔である事が判明。取り入って連れて行ってもらおうとするが、業績を上げることを条件に出される。その気になった鬼塚は新商品の開発に立ち上がる。一方鬼塚に振られた富士子も京都に現れ、舞妓になるべく修行を始める。果たして鬼塚は念願の舞妓さんと野球拳ができるのか…といった(馬鹿馬鹿しい)物語。

はっきり言って、全く深みの無い薄っぺらなストーリーである。しかし、観に来たこちらもそんなものは少しも期待していないので問題なし。後は面白いか、否か、しかない。さらに言えば阿部サダヲが面白いかどうかが全ての鍵を握っていると思われた。

そういう面では阿部サダヲは充分に期待に応えている。特に映画だからとは考えず、多分舞台と殆ど変わらぬエキセントリックな演技をそのまま出している。また、そんな彼の演技を受ける脇も舞台経験豊富な堤真一の他、演劇畑の役者を多く配しているので、阿部サダヲが一人浮くという最悪の事態にはならず、舞台でやっているものをそのまま映画に移したかのような印象を受ける。

しかし、落とし穴は意外な所にある。この監督がテレビの職人演出家なので、へんに物語をまとめようとしたのでは、と思えた後半に失速する。おまけにその部分では当然(?)阿部サダヲの出番が減り、他の役者でウエットな部分を出そうとして失敗している。

いやいや、もしかしたら失速したのは作る側ではなく、観客の僕の方だったのかもしれない。阿部サダヲの躁状態の演技にずっと付き合ったため、疲れてしまったのが最大の原因なのかもしれない。

たまには全く毛色の違ったものでも観たいと思っている人には結構楽しめる作品になっていると思う。しかし、冒頭で阿部サダヲに乗れなかった人には長い長い苦行であろう。最早、阿部サダヲの存在は同じ人類と言うよりは、マンガからそのまま現実の世界に出てきてしまった人物であるかのように思える。特に赤塚不二夫のキャラクターっぽさがプンプン匂う。『天才バカボン』でバカボンのパパを訪ねて来るバカ田大学の後輩、というキャラにピッタリである。

あと、この映画は植木等さんの最後の作品であり、恐らくギリギリの状態での出演であったのではなかろうか。しかし、そんな感じは微塵も見せず、凛とした姿で出演している。「無責任男」と共通するようなこの作品が最後というのも何かの因縁なのだろうか。

 って事で、赤塚不二夫風にしてみました 


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「転校生 さよなら あなた」 [映画(2007)]

1982年の春に公開された元祖(?)『転校生』をリアルタイムに観た者にとって、この映画は注目作であり、且つ心配な作品である。

前作を汚すだけの結果になりはしないか…

「さよなら、わたし!」「さよなら、俺!」と叫びながら別れ別れになる感動のラストシーンから、実に25年が経っている。いい歳こいたオッサンが『転校生』について思い出すだけで心ときめく。キモイのかもしれないが、しょうがない。『転校生』は僕らの世代にとってはそんな映画だったのだから。

休日午前中のシネマート新宿。『転校生』だが、ポスターには蓮佛美沙子と森田直幸。副題に『さよなら あなた』とある。前作は「さよなら、わたし」「さよなら、俺」とは言っていたが、「さよなら、あなた」とは言っていなかった。その辺に何かポイントがあるのかと考えながら劇場の中へ。場内を見回してみると、30人程度の客のほぼ100%が同世代(か少し上)という状況。きっとみんな、前作を若き日に観たであろう人々。あれから四半世紀、夫々がどんな体験を経て、どんな思いを抱えて、再び、と言うか新たな『転校生』を観に来ているのか

冒頭、黒地に白い字で「A MOVIE」と出ただけで、もうヤバイ。目頭が熱くなる。

俺はパブロフの犬か!

なんて思っているうちに映画が始まる。白黒の8ミリ映画の画像、ではなく、尾道から長野へ向かう電車内の一夫(森田)と母(清水美沙)。そのもの凄い速さの会話。いや、そんなことよりも何よりも

画面がナナメに傾いてる!

何、これ?

もう既に感傷的な気分など吹っ飛んでいる。まさかこんなナナメに曲がった映画を全編見せられるんじゃないだろうな、なんて思いながら映画は進行する。前半は転校して来るのが一美から一夫に代わったなど、設定の変更はあったものの、大筋は前作を踏襲している。凄く早いテンポで物語りは進む。そしてふたりの肉体と心が入れ替わるシーン。

きっと入れ替わったところで画面が正常になるのかな?

という願いも空しく、ずっと曲がったまま。どうにもこうにも、これが気持ち悪くって映画に集中できない。勿論演出の意図はあるのだろうが、理屈を説明されたところで気持ち悪いものは気持ち悪い。大林監督くらいのビッグネームになれば、何をやっても周りから何も言われないのかもしれないが、ここまでいくと強烈なエゴさえ感じる。それに画面をナナメにして主人公たちの不安定な気持ちを表現しているというならば、それはあまりにも安易で陳腐な方法論だと思う。

内容的には前作の可笑しさ、哀しさは引き継がれている。特に後半は全く違った展開をみせる。一美の体になった一夫が不治の病で倒れ、一夫の母が見舞いにくるところなんかはとてもいいシーンだし、何より蓮佛美沙子が小林聡美に近づくくらいの好演を見せてくれている。思えば前作のラスト、「さよなら、俺」「さよなら、私」は結局一度は自分の体であった自分自身に対しての別れであったのだが、今回の「さよなら、あなた」は入れ替わった相手に対するものであり、より思いやりの気持ちが感じられて、テーマ的には前進しているのかもしれない。

それにしても、内容面は満足できるものであったが、何でこんな奇を衒った撮り方をしてしまったのだろうか。元々「50年後の長野の子供達に見せたい映画を」という依頼で作った作品らしいが、こんな傾いた映画がそんな後々まで残る映画なんだろうかと疑問に思う。それにも増して、「今」の子供達にも観られていない現実がある。映画業界では最先端の人だった大林監督も既に過去の人になってしまったのだろうか。間髪入れず公開される新作『22才の別れ』はどうなんだろうか。まだ「さよなら、大林監督!」とは言いたくはないのだが…


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「サイドカーに犬」 [映画(2007)]

この映画を観る前にハタと思った。

根岸吉太郎監督の映画観るの、いったいいつ以来?

・・・『探偵物語』!?

あまりにも昔に遡らなくてはならず、驚いてしまった。『狂った果実』『遠雷』『キャバレー日記』…その辺りの作品は面白かったのに、大手の会社で撮るようになってからは、すっかり興味の対象外の人になってしまった。特に三角マークはいけない。結局誰が撮っても同じようになってしまう。作家性の墓場。今では行定が同じような道を辿っているように思う。

しかし、今回の根岸吉太郎監督作品は、上映規模からして明らかな小品。僕は作り手の個性が色濃く出る小品が好きだ。特に日本映画は大作になればなるほど、金太郎飴のように画一化される印象を受けるため観る気がしなくなるので、この映画のポジション位が一番合っている。

さて、本作『サイドカーに犬』である。先ずは原作通りなのではあるが、タイトルがいい。何の事かは全く分らなかったが、面白そうな雰囲気がある。

母親(鈴木砂羽)が家出した後に来た父(古田新太)の愛人のヨーコさん(竹内結子)と主人公である10歳の少女との交流を、夏休み中に起こった出来事として描いた作品。いわゆる「ひと夏もの」である。洋の東西を問わず「ひと夏もの」にハズレは少ない。この作品も標準以上の出来になっている。主人公の少女に思い出深いひと夏の体験をさせるヨーコさん役に竹内結子。このキャスティングが絶妙。ヨーコさんはさっぱりしていて、いささか男っぽく、実に大雑把な性格の強烈キャラなのだが、これを竹内結子が演じると嫌味の無い人物になり、品が落ちない。読んでいない原作や脚本の段階ではもっと破天荒なキャラだったのでは、と思えるのだが、それが良くも悪くも中和されて爽やかな印象が残る。観る人によっては彼女じゃなくもっとハジケられる女優が…、と感じるのかもしれないが、僕は竹内結子で正解だったと感じた。

それほど大きな期待をせずに観たこの作品、結構拾い物であった。やっぱり日本の映画監督が本領を発揮できるのは小品なのだと再認識した次第である。


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「スパイダーマン3」 [映画(2007)]

急に『スパイダーマン3』が観たくなり、早速出掛けようかと思ったものの、前2作を観ていなかったので慌ててDVDにて予習(?)することにした。

さすがに大ヒットした作品だけあって、どちらもかなり面白かった。そしてある事に気がついた。このシリーズはジャンルとしてはSFアクションではあるが、一番重要な物語の柱は実は違う事に。もちろん今回の『3』もそれを踏襲していた。

『スパイダーマン』シリーズはピーター(トビー・マグワイア)という青年の若者ならではの悩みや人間として成長する姿を描いた物語である。そして何といっても一番の関心事はガールフレンドのMJことメリー・ジェーン・ワトソン(キルスティン・ダンスト)なのである。現に『2』ではMJに他の彼氏ができ、結婚する事になったら、ピーターはスパイダーマンとしての能力をあっさり失ってしまった(モロイ奴だ!)。

つまり、

童貞の純情青年ピーターと恋多き海千山千女MJとのラブストーリー

がこのシリーズのキモなのである。

だからモンスターとの戦いはその次くらいの位置づけで、いつもスパイダーマンには「戦いに勝った感」が希薄であり、それを描く必要もないのだ。ピーターとしてはMJのハートさえ掴めればそれでいいし、そっちの方がよっぽど重要なのだ。

そんなMJとのエピソードを中心に、それに親友ハリー(ジェームズ・フランコ)とのエピソードと叔父叔母とのエピソードが絡み、それらを縦軸として物語の柱とし、そこに横軸としてモンスターとの戦いが団子のように刺さったのが『スパイダーマン』シリーズであると言えるのではないか。それを図式したのが下の図。

 

そんな観点で観れば『3』も充分面白かった。相変わらず移り気なMJではあったが、ピーターもチョイワルに大変身してMJを困らせる。そんな中、モンスターが現れてお約束のMJ危機一髪! そして…

それにしても、こんなにモンスターとの戦いを軽視して観ているのは俺だけかな…?


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「バベル」 [映画(2007)]

決して難解な映画ではないが、世界3ヶ所で起こっている出来事を時系列をずらす事で、観客に多少の混乱を生じさせていると同時に芸術映画っぽい雰囲気を醸し出している。アカデミー作品賞の他に、日本人の菊地凛子が助演女優賞にノミネートされて一躍注目を集めたが、カンヌ映画祭の監督賞を受賞した作品と呼ぶ方が、この映画には合っている気がする。

モロッコのヤギ飼いの息子2人がコヨーテを撃つために与えられたライフルで、遊び半分に観光バスに撃った銃弾が命中し、それは世界的な事件に発展した。警察は犯人探しを開始し、やがてヤギ飼い一家にも捜査がおよび…

夫婦仲の冷めたアメリカ人の夫と妻。特に妻は夫から気持ちが遠ざかっている。そんな2人がモロッコを旅行中、乗っていたバスに銃弾が撃ち込まれ、妻に命中し重傷を負うが、砂漠の真ん中では満足な治療は受けられない。近くの小さな村に運び込まれるも妻の容態は悪化していき…

アメリカ人夫婦の留守を預かるメキシコ人ハウスキーパーのアメリアは息子の結婚式に出席するため帰国しようとしていたが、旅行先でアメリカ人夫婦に思わぬ出来事が起こり、しばらく夫婦の2人の子供の面倒を見なくてはならなくなる。しかたなくメキシコまで2人を連れて帰国。結婚式は無事に終わるが、帰り道のアメリカとの国境で、車を運転する甥と警備員との間でトラブルが発生し、無理矢理国境を越えることになってしまう。そして甥と別行動となったアメリアと2人の子供は砂漠に取り残されることになり…

チエコは聾唖の日本人女子高生。母を既に亡くし父と2人暮らし。聾唖であるがため、健常者に相手にされず、気持ちを上手く伝えられないがためストレスがたまっている。そんな中、2人の刑事が父を訪ねてくる。父は不在で刑事は帰ったが、後日手元に残った名刺で若い方の刑事を呼び出したチエコは…

と、3カ国で起こっている4つのエピソードが絡み合う構成になっている。加害者側と被害者側、そして被害者の自国に残された家族の3つのエピソードは、別々のようであるが連動している。唯一日本のエピソードだけ直接的な繋がりは無く、独立した印象を受ける。ライフルの元の持ち主というのは取って付けたかのような繋がりに思える。

しかし、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督(長い名前だ)が現代のコミュニケーションのあり方を表現したかったのならば、一番重要なパートであったと思える。現代人の上手くいかないコミュニケーションを聾唖の女子高生という設定で際立たせ、ストレス、苛立ち、孤独を見事に表現していた。聾唖者なので当然台詞のない難役を菊地凛子が表情と仕草だけで、作り手の意図するところを伝えた演技は賞賛に値する。それ故、ラストシーンは日本になったのだと思える。

この映画を観ながら久しぶりにヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』を思い出した。テーマ的な事や世界観、出てくる風景に加え、『バベル』の音楽が『パリ・テキサス』のライ・クーダの音楽と似ている気がしたからだ。凌駕はしていないが、この『バベル』は近づくくらいの傑作であると感じた。


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「パッチギ! LOVE & PEACE」 [映画(2007)]

多くの映画賞に輝き、僕個人としても2004年度の邦画でナンバーワンだった『パッチギ!』の続編。今回は前作で主人公の恋の相手であった在日朝鮮人の女の子・キョンジャとその兄のアンソンを中心とした一家の物語。正直、この設定を最初に聞いた時の「マイナーな映画になりそうだ」と思った印象と、「単に暗い作品になってしまうのでは」と抱いた不安を胸にスクリーンに向かった。

1974年、アンソン(井坂俊哉)、キョンジャ(中村ゆり)とその母(キムラ緑子)、そしてアンソンの息子・チャンス(今井悠貴)の一家は東京に移り住んでいた。それはチャンスの病気を治す病院を探すためであった。東京でも在日朝鮮人の立場は厳しく、イザコザが絶えない。そんな争いの中、アンソンは国電の運転手・佐藤(藤井隆)と知り合う。アンソンの住む江東区枝川を訪れた佐藤は妹のキョンジャに一目惚れしてしまう。そのキョンジャは芸能プロダクションにスカウトされ、タレント活動を開始する。

そんな中、チャンスの病気は筋ジストロフィーであることが判明し、アンソンは絶望の渕に追いやられる。研究が進んでいるアメリカで治療を受けるためには大金が必要である。それでもチャンスの命を救いたいアンソンは危険な仕事に手を染めることになり…というストーリー。

前作はごく普通の日本人の高校生が在日朝鮮人の女の子に恋してしまう、というのが物語の柱にあった。これは観客の視点として感情移入しやすく、物語を観やすいものにしていた。しかもラブストーリーが話の推進役となっており、万人受けする映画となった。

しかし、今回の作品は、その柱と呼べるものが明確になっておらず、しかも難病物という設定が、さらにマイナーなベクトルに観客を引っ張り戸惑わせる。こんな設定の中では、本来はコメディリリーフとして期待されて出演しただろう藤井隆が、いくら滑って転んで笑いを取ろうとしても、ただただ空回りしているだけの印象しか残さない。

また、キョンジャの行動も今一つ理解できるものではなく、これでは感動とは程遠く、上滑りするストーリーを見守るだけになってしまった。

いろいろな事柄を詰め込みすぎた反面、明確なストーリーの柱を創り出せなかったこの作品と、素晴らしかった前作を見比べて判ったことはただひとつ。

ラブストーリーは強し!

ってこと。


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「監督・ばんざい!」 [映画(2007)]

久しぶりにたけしの映画を観た。いや、たけしなんて呼び方は今や失礼にあたるのか。世界の北野武監督の新作である。

今回は久々のコメディ。とは言っても当然一筋縄ではいかない。監督・北野武の新作映画がなかなか上手くいかない苦悩をその構想(創りかけ風)を作品として織り交ぜ、オムニバス的に描いている。その劇中劇は、初期作品的なヤクザ映画に始まり、小津安二郎風の『定年』、泣ける(?)恋愛映画の『追憶の扉』、自叙伝的な昭和30年代物の『コールタールの力道山』、娯楽時代劇『青い鴉 忍PART2』、ホラー『能楽堂』、SF『約束の日』と大盤振舞なのだが、夫々の作品がボツになっていく。この中では『コールタールの力道山』が抜けて面白い。こんな形ではなく本編として観てみたいくらいの完成度である。

とまぁ、何とも不思議な映画なのだが、これはかなり北野武監督が正直に今の自分を語った作品であると思う。やはり世界のキタノになったからこその苦悩も多く、中途半端な作品は創れない状況であろうし、失敗したくない気持ちは強いが、かと言って映画を創りたい気持ちも強く、行き詰まりを感じている。そこでそんな気持ちをコメディというオブラートに包んで表現したのがこの作品なんだと思う。この私映画とも言える作品は、例えばフェリーニの『8 1/2』やウディ・アレンの諸作品と世界観は近いのかもしれない。

劇中、たびたび登場するたけし人形(上写真)。時に行動を共にし、時に身代わりになるこの人形こそが象徴的な役割を担っている。この北野武監督のもう一人の自分とも言える人形の持つ意味合いとは―劇中に明確な説明は無いが、タケシ=北野武ならば、人形=ビートたけしという事なのだろうか。今や北野武の苦悩を共有できるのはビートたけしだけなのだろう。日本を代表する監督になってしまった北野武が悩みを打ち明けられる相手は誰もいない。したがって自分自身に問いかけるしかない。その象徴があの人形ではないのか。

そのようにこの映画を観ていけば、なかなか辛いものがあるが、天才の苦悩を垣間見られるいい機会でもある。過去に北野映画を一本も観ていない人にはこの映画を薦めない。コメディとしては大して面白くないからだ。しかし、何本か観ている人には興味深い作品となっていることは間違いない。


タグ:北野武
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「赤い文化住宅の初子」 [映画(2007)]

正直なところ、以前こき下ろした『さくらん』(記事)の脚本家であるタナダユキの監督作品なので、多少のためらいはあったのだが、面白そうな気がしたので観てみることにした。

しかし面白そうなんて言葉はまるで当て嵌まらないものであった。あまりにも主人公の少女の環境が苛酷で面白がっている場合ではなかった。

父は借金を残して失踪、母は病死し、残されたのは少し年上の兄と中3の初子のふたり。兄は高校を中退し工場で働いてはいるもののギリギリの生活を余儀なくされている。中学3年生の初子は進学校である東高校を目指しながらも、夜はラーメン屋でバイトをしている。しかし兄には進学せず就職し家計を助けろと迫られ、初子は泣く泣く進学を諦めようとするのだが、諦めきれず…。といったストーリー。

それにしても初子を巡る大人たちが揃いも揃ってロクデナシなのである。勤労意欲ゼロの担任教師。給料をちょろまかした挙句初子をクビにしたラーメン屋店主。僅かな生活費をパチンコや風俗で使ってしまう兄。彼らには初子に対する同情など皆無なのである。唯一初子に優しく接してくれた見ず知らずの女性は…。そんな中で僅かな希望の光を見出そうとする初子に更なる試練が待ち構えている。

こんな八方ふさがりな状況でも前向きに生きていこうとする初子が健気だ。演じているのは東亜優。可哀想なだけになりがちな初子というキャラクターに、どこか芯の通った人物に思わせてくれるのは彼女の功績であり、この絶望的な映画の唯一の希望でもある。彼女は既に『海と夕陽と彼女の涙 ストロベリーフィールズ』(記事)『PETBOX トカゲ飛んだ?』(記事)でも観ており、可愛い中に影を感じさせてくれ、キャラクターに深みを与える若手女優である。演技的にはもっと上手い同世代の女優はいるが、彼女の持つ雰囲気は他の女優とは一線を画しており、器用なだけの役者よりはよっぽど説得力がある。

彼女の兄を演じる塩谷瞬は文句無く上手い。『パッチギ!』とはあまりにもかけ離れた役にリアリティを持たせて好演している。その落差はとても同一人物とは思えないほど、どちらも嵌っており、見事という言葉しか思いつかない。

決して万人向けの映画ではないが、飾り気の無い辛口のドラマを観てみたい気分の人、若手役者の先物買いをしたい人には一見の価値がある作品である。

 


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「ロッキー・ザ・ファイナル」(その2) [映画(2007)]

できましたらその1からお読みください

掻い摘んで言えば、愛妻エイドリアンを癌で失った還暦を過ぎたロッキーが、現役復帰して現在の世界チャンピオンと戦うべく、再びリングに上がるという話である。それは予告編を観た時に想像はついていたし、観ていなくても予想できたことである。

それにしてもこの作品、始まる前に20世紀FOX、コロムビア、MGMという大手映画制作会社のタイトルが3つも入った、ハリウッド超大作といった雰囲気なのだが、実はシルベスタ・スタローンの壮大な自主映画なんじゃないかなと思う。

ここ数年、スタローンは満足な映画に出演できずにいた。年老いたアクション俳優は次第に仕事が無くなっていくのは仕方ないことである。しかし、スタローン自身は映画を創りたい気持ちは強い。ではどうするか―――『ロッキー』をやるしかない! 彼はそう思ったのではないか。『ロッキー』を通じて今の自分の気持ちを表現しよう。それは映画を再び創ることで一線に復帰すること。つまり映画を再び創ろうとする気持ちを、ロッキーが再び現役復帰することに置き換えた作品になっているのだと思う。だからかなり私小説ならぬ私映画に近い作品となっている。そして、さらには『ロッキー』1作目の自分の姿とも重ね合わせることになった。あの作品もロッキーにスタローン自身を投影して書かれた脚本であった筈である。

そんな1作目を書いたスタローンと『ファイナル』を書いているスタローン、1作目のロッキーと『ファイナル』のロッキーが30年という時を越えて繋がった、とても作り手の強い想いが表に出た作品となっている。

「人生って長い旅だよな」

と、1作目を昔観た人はそう思う。いや、思えるような創りになっている。だからよく考えれば、この『ファイナル』の感動というのは1作目の感動の記憶と、この『ロッキー』シリーズの終わりを見届けたことの充実感である。はっきり言えば『ファイナル』自体はちょっと疑問符を付けたい話である。還暦を越えて現役チャンピオンと試合をするなんて、やっぱり無茶としか思えない。

死んじゃうよ

そう思う。付き合わされた現役チャンピオンもいい迷惑であったことだろう。勝って当たり前だが、ボコボコにしたら批判の的になってしまう。ましてや本気出して殺してしまったら大変なことである。「百害あって一利なし」状態である。まぁ、ロッキーにボクシングの真髄を教えてもらった、ということで納得するか。

それにしても、この映画を観て感化されたガッツ石松が現役復帰して亀田兄弟に挑戦状を叩きつける、な~んてこと起こらないかな。  (了)


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